俺の思う認識論(仮)
第一章 認識に対する疑問
鹿と自動車とオートバイの中で仲間外れは何か、と言われると長く考え込まなければ、恐らく鹿を選ぶ人が多いのではないのかと思う。ここでどのような手順が脳内で踏まれているのだろうか、恐らくこの様なものではないだろうか。
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鹿:生き物→A
自動車:無生物+移動→B
オートバイ:無生物+移動→B
よって鹿が仲間外れ。
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こんなところだろう。しかし次のような場合はどうだろうか。鹿と自動車とオートバイとライオンの中から一つだけ仲間外れを選べ。少なくとも友人にこの問いかけをした所上の質問で鹿と答えた人がオートバイを選んだ。この場合次の様な手順が踏まれているのではないだろうか。
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鹿:生き物→大きい→四足→A
自動車:無生物+移動→大きい→四足→A
オートバイ:無生物+移動→小さい→二足→B
ライオン:生き物→小さい→四足→A
よってオートバイが仲間外れ
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ここで注目してもらいたいことは二つ目の手順の時点で二つ目の手順だけを参考にすれば、鹿と自動車とオートバイの中で仲間外れはオートバイになる。
この様なことはなぜ起こるのだろうか。これは恐らく仲間外れは何か、という具体的でない質問が理由の一つであろう。例えばこの中で接地する場所の数において仲間外れは何か?と問われればオートバイを最初から選ぶだろう。しかしながら多数は抽象的な質問においては鹿を選んでしまう。この様なことは現実では、黒人差別やLGBT問題やいじめなど多くの問題に及んでるように思う。
いろいろ書く
第二章 人口知能と人の認識の違い
例えば人の場合は顕微鏡がなかった場合には、人には形状が点にしか見えないが実際には
A:形状がBと同じ、遅い
B:形状がAと同じ、速い
C:形状が大きくABと異なる、速い
となっているような物体があったとしたら(速度は本当に少しだけ違う)、恐らく顕微鏡があればCが仲間外れになるだろうが実際にはAが仲間外れになるだろう。だが分解能が相当に高い眼を兼ね備えた人工知能に仲間外れを探させると恐らくAを選ぶことだろう。
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他の例も少し書く
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これらのことから分かるように、人間が多数のものをある程度の大きさの集合に(いかにも論理的かのように)分けることができるのは人間の能力が制限されていることが大きな理由のように思う。
→分解能を低くしても認識できるような差異が優先度の高い差異?しかし視覚的な分解能においてすら形状や色といったパラメーターが存在するからそれだけでは微妙なのでは→例えば下の図のようなモデルが考えられるのではないだろうか、この図において赤い線が右に進んで行くと先に色の差異が認められて次に形状の差異が認められる、このような解釈が可能なのではないだろうか。
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第三章 比較可能性について(二元論と脱構築について)
「3時25分」と「リンゴ」の比較は可能なのだろうか?
1.比較不可能→絶対的他者の存在と比較のための共通点の存在
2.比較可能→人間によって認識が行われているという時点で認識されたという共通点があるため比較可能、絶対的他者の不存在
飛躍
人間の認識能力では共通点を認識できないようなものは存在するのだろうか
→認識できないものは存在しないことと同じ。→反論:科学の歴史の中で認識が出来なかったものが認識可能になってきてはいないか?→認識可能性には段階がある。つまり科学によって認識可能になるものと何によっても認識可能にならないようなもの(人間が一次的に認識可能なもの全てに物理的相互作用をしないもの)
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最終章 何を基準にものをみるべきなのか
一つの袋の中に沢山の何か入っていたとしてそれを人間のそのままの視点で判断するとリンゴとオレンジに分けることが出来るが、ある眼鏡を通すと違う共通点がより大きく認識されてリンゴとオレンジではないAとBのように認識された。また違う眼鏡を通してみると違う共通点が...
→眼鏡の価値は本当の客観的視点では測ることが出来ない上に眼鏡は無限に存在する。→科学の営みは客観的に行われることは不可能でその営みは全て実用性および価値観によって裏付けされている。→素粒子論などが実学にならないために無駄なのかといえば、認識可能な限界を探すという目的においては科学は永遠に夢を追い続けられるのでは